忙しい日常に息抜きの場を。『ODDSCHOOL(オッドスクール)代表 ワタナベシンヤ』

レクレーションやイベントの企画を通じて、個人の生き方や在り方を見つめ直す活動が広まりを見せている。群馬県前橋市で活動する団体 ODDSCHOOL(オッドスクール)もそんな団体の一つだ。

ODDSCHOOLでは、前橋市内の花屋を中心にイベントを企画、悩める社会人に向けた新たなセーフティネットとして注目を集めている。

今回GOOR*では、ODDSCHOOL(以下、オッドスクール)代表ワタナベシンヤ氏にインタビュー取材をお願いし、活動の背景にある想い・今後の展望に迫った。

取材・文 / 橋本・吉田・木戸口

(黒字:ワタナベシンヤ氏、青字:●インタビュアー

●はじめにオッドスクールの活動について教えていただきたいです。

オッドスクールっていうのはイベントを中心として、個人の在り方·生き方とかを考えていく社会の学校。今はそのような考えで活動しています。

●どのようなイベントとなっていますか。

例えばちょっとしたフェス(僕らは文化祭って呼んでいるんですけど。)や部活動、課外授業を行っています。前橋市内にお世話になっている花屋があって、そこを中心に小さなイベントを開催しています。内容的には視点が広がる機会を作れたらいいのかなと考えています。

●「視点が広がるような機会」とは、具体的にどのようなことをしますか。

例えばそうですね。目が見えないカメラマンさんを講師に迎えて、実際に自分たちが視覚を奪った状態で、残りの4つの感覚(五感のうち視覚以外)で、彼の世界を体験するとかありましたね。

他にも、忘年会と称して、遊びとセミナーのちょうど間をとってやり、「しくじり先生(テレビ番組)」のように各方面で活躍されている人を講師に授業をしてもらったり。

●そのようなイベント開催にはどういった経緯がありますか。

僕は昔から何かを企画することが好きでした。最近になって少し感じたのは、その原体験が僕の高校時代にあると思って。

高校の文化祭でちょっとしたオブジェを作る班長を任されたんです。等身大の五重の塔をみんなで作るっていう。僕は当時から、多くの人といろんな関わりがあったし、人を集める・巻き込むことは慣れていました。

普段は誰かに会っても、特に会話って生まれないですよね。でも、そこに何か一つの目標だったりがあれば、学力などは関係なく様々な個性を持つ多くの人が集まって、そこに会話が生まれます。そして、その集団が途方もない目標に向かって進んでいく状況を、この時は目の当たりにしました。

その熱量というか、温まっていく感覚が原体験になりました。そこからずっと続けているんだと思います。

●取材にあたってホームページも拝見しました。オッドスクールに込められた意味を教えていただきたいです。

ホームページには、ODD CHANCES, NEW FUTURES(とあります)。 意味は「互いのODDの可能性を楽しめる世界へ」。 これはODDSCHOOLの理念 なんですけど、その理念の端を合わせてODD FUTURES。

これはアーティストの名前になります。ヒップポップのクルーなんですけど、元をたどると僕自身オールジャンル広く浅く音楽が好きです。

元々、この活動を始めたきっかけに「ストリート教育」のような、自分が社会の教員だったこともあり、「戦後の青空教室のように何もない状況でも」というところがあります。

でも、そういった “セミナー”とかって言うとすごく堅苦しいでしょ。

逆にただ集まって遊ぶだけでもいいんですけど、それだけではなくみんなで何かやれたらいいねと思って、“スクール”とちょうどよくハードルを下げています。

「オッド」って”変な”だったり、”奇妙”という意味を含んでいますが、その人”らしさ”でもあると思います。個人の捉え方によって、その人自身の生きづらさが発生している場合も結構あると思うんです。

そうではない場合ももちろんあります。しかし、最低限は守られているが、少し思い悩んでしまうって自分の生き方らしさや捉え方の問題かもしれない。そこで、その捉え方をユーモアとは言わないですけど、滑稽さだったり、視点を変えて眺めてみるっていう訓練をここでしたい。

訓練という言い方はおかしいですけど、そういった機会があったらいいなと思っています。

●「視点を変える機会」として具体的にどのようなことをするのでしょうか?

普段とは何か違った意味を持たせてみる「見立てあそび」のようなものが好きでやっています。

そのモノの見方を変えるみたいな(ところに現れている)。

自分が哲学とか近代哲学、倫理研究室で学んでいました。その時にヘーゲルって美しいものについて語っている哲学者がいて、その弟子のようなローゼンクランツが本を出しています(※哲学者ローゼンクランツ著「醜の美学」)。

そこで彼が醜さの美学ということをすごくわかりやすく語っているんです。要は流行り廃りとか、例えば服や音楽がリバイバルすることがあります。

しかし、昔流行ったものがそのまま流行るわけではなくて、美しいものってどんどんぐるぐる繰り返してるけど、新しい部分を伴ってまた躍り出るみたいなって、その時に彼は、滑稽さやユーモアを携えて戻ってくるっていう話をしてます。

ユーモアって、視点を変えてみることでもあると思うんです。そういう考え方の最初の一歩として、「見立てあそび」があるのかなって。

●なるほど。現状、多くの方から反響があることについては、どんな想いがありますか?

ありがたいことです。本当にいろんな立場の方がいらっしゃって、学生さん、高校生・大学生もそうですけど、社会人さんとか、あと全然僕より上の50代の方まで。人生の先輩、個人事業主の方もいたり、多くの方が賛同してくれていますね。

●「学生さん、高校生・大学生」というキーワードが出ました。若い世代からも反響を集めるって、すごいことだと思います。

僕は教員を7年間やっていました。その時に学校の授業だけでは解決できないことがあると感じたんです。

赴任した2校目の学校に児童自立支援施設があって、そこには地域や家庭に課題を抱える生徒さんが多かった。その学校で授業しようとするんですけど、教科書とかを教える前にそもそも興味を持ってもらわないといけない。そこでは音楽からアプローチしてみたり、教科書とは少し離れているけどビットコインの話をしてみたりとか、クラファンのやり方とかを話してみました。

学校の科目に限らず社会的な勉強をしてもらおうと思って。そもそも教科書の本質的な内容理解までたどり着かないことが多かったんで(短い学校教育の期間では)、せめてGoogleに検索できるキーワードだけでも覚えてもらおうと思って。

そうしていく、生徒たちが変わっていきました。最初は、落ち着きがなく勉強に向き合えなかったのに、 徐々に「授業やるぞ!」みたいな感じで、絶対わかってないだろ(これは極端な表現ですが)って生徒も前のめりに座って授業を受けるという様子がみられるようになりました。

だけど、その彼らが学校を卒業した後のセーフティネットって少ないんですよね。

この社会で、何か悩んだ時だったり、ただ人生消化してるような感覚に陥っているんだったら、最初は一つの娯楽としてでいいから、オッドスクールのような場所があって、自分自身にやりたいこととかはなくても、やりたいことのある誰かを応援したり、様々な人と関わったりすることで、ある意味セーフティネットにもなり得る。活動を通じて、手を動かしているうちに自身の生き方について考えていけたらいいのかなって。

●娯楽として楽しさや、セーフティネットとしての安心感が若い世代からの反響につながっているのかもしれませんね。幅広いメンバーで今後はどのような活動を予定されていますか。

オッドスクールでは、今まで大小併せて10から15のイベントを開いてきました。ただ、今までの2年程は助走期間ぐらいだと思っていて、これからはもっとフェス・文化祭を軸に、遊ぶぐらいの感覚でチャレンジと失敗ができる学校としてやっていきたい。

好きでやっていることでもあるので、文化祭といったイベントを軸にやっていこうと思っています。メンバーも募集して、一緒に文化祭を作るっていうところで目標を定めて、そこに向かっていこうと思います。将来的に学校のような、集まってきた人同士が遊ぶようにチャレンジできて学習できるような場になればいいですよね。

これからの学校現場では、部活動の機能を地域に委ねていく動きがあります。それに近い話で言えば、社会教育という部分にも関わっていけたらいいのかな。

●目指しているカタチは、ものすごく学校に近いように感じます。実現には難しさなどを感じる部分はありますか?

難しさもあります。学校・教育を作るっていう目線だと少しいい子ちゃん(真面目すぎる取り組み)になってしまうし、本当はもっと楽しさとか、周りから見たらと少し変わっている要素も含んだぐらいのアバウトさも包摂してやりたいと思う。

元々は既存の教育の「カウンター(対立する立場)」として始めた部分もあるので。

教員時代、生徒の中にはタトゥーを心のよりどころにして生きる生徒もいたんです。でも、それってバツみたいな考え方がある。もちろん、その考えもわかります。

そこには既存の教育制度が悪いとかじゃなくて制度そのものの限界があって、そこからこぼれてしまう。

オッドスクールでは逆にそういう部分でさえも、なぜそれが必要とされるのかということに理解を示していけたらと思うんです。そういう点で、自由な雰囲気を失わずにまた公教育の補完的な役割をしていくみたいなことは裏のテーマで試行錯誤しています。

なかなか思い通りの表現ができていないところもまだまだありますね。

●ワタナベさんが今後考えている活動があれば教えてください。

教師をやめた今でも授業をやりたいなって思うんです。

「オッド」って”変な”だったり、”奇妙”という意味があります。やるなら公教育から溢れた部分にフォーカスを当てるのがオッドスクールっぽいのかなって。

例えば、中学の教科書にある内容、でも学習指導要領の「これを絶対やれ」って言われてない、本来なら飛ばされるような内容だけ拾い集めて、授業をする、それを社会実装するためにはどうするかを皆で考える授業をしてみてもいいなって思います。

他には、例えば軽トラに自分が乗って、公園や駅前に授業しにいくのもいいのかなって、教育を輸出するような感じですね。ゲリラ的な授業とかも面白いですよね。

何もないことを楽しむ意味合いで河原を校舎に見立ててそこから始めてもいい。とにかく自分自身が楽しんでやれることを、他の人も巻き込みながらやっていきたいです。

●オッドスクール参加者は様々な方が楽しんで活動している印象があります。

様々な環境変化が起こる中で、悩む·考えることがあると思います。

そういう時にオッドスクールに来ることで、色々な生き方の人と関わって何か気づきがある場になると良いなって思っているので、様々な方がいる現状はいいのかなって思っています。

様々な方がいる、それこそ学校かもしれないですよね。文化祭やって、様々な人が集まって、授業もいくつかあって、人との関わりもあるような。オッドスクールは参加しているみんなが、その結果として個人的に学んで成長していたというような場になればいいですね。

●そう思ったきっかけがあれば、最後にぜひお聞きしたいです。

元々僕がやりたかった、やり始めたきっかけが、前橋〇〇部っていうものなんです。(※前橋〇〇部は、〇〇の中に、自分の好きなモノ、趣味、食べ物を入れて部活を立ち上げる為のプラットフォーム。)あれが始まったぐらいのときにちょこちょこ顔を出していました。

当時、もちろん仕事はやっぱり大変で休みもあまりなくて、2時間ぐらいの睡眠時間なんですよ。自分の身を削っていた。でも、前橋〇〇部に行って、自分たちで何かを面白いことをやっている大人がいると知って、鬱になりかけるような日常・状況だったけど、そこに繋がっているということが希望だったり、救いになったんですよね。

現実に向き合いつつも、忙しい日常でも息抜きの場になるものがあると、希望というか心の支えとかになるのかな。

オッドスクールでも、それを一番やりたいですね。

●貴重なお話をありがとうございました!
ODDSCHOOL(オッドスクール)
代表 ワタナベシンヤ
HP:https://www.oddschool.jp
Twitter:@ODDSCHOOLJP
Instagram:@odd__school

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