【アスリートインタビュー】障害を乗り越え、海へ戻ったサーファー小林征郁(アダプティブサーフィン日本代表)

photo by 吉田

アダプティブサーフィンという競技が次期パラリンピックの種目として大きな注目を集めている。

アダプティブ(adaptive)とは、日本語で「適応性のある」という意味で訳される。すなわち、アダプティブサーフィンとは、身体に何らかの障害を持つ方もそれぞれの障害の個性に適応した形でサーフボードを操り行うサーフィン。

プロアダプティブサーファー小林征郁は、日本を代表するサーファーの一人として国内に留まらず世界の波に乗る。コーヒーショップを営み経営者としての顔も持つ彼の元には、この日も美味しいコーヒーと暖かな笑顔を求めた人々が自然に集まっていた。しかし、そんな彼の人生もまた、決して波風立たない穏やかなものではない。交通事故により、脊椎損傷(下半身付随)を患ってなお、彼は自分の大好きな海へ帰ることに成功した。そこへ至るまでには、彼のみぞ知る困難、それと同時に希望もあったのではないだろうか。

今回GOOR*では、サーファー小林征郁に単独インタビューをお願いし、彼のこれまで辿った軌跡と、今後の展望について語ってもらった。

取材:橋本 撮影:吉田 文:木戸口

(黒字:小林征郁、青字:インタビュアー

本日は小林さんに、これまでのサーファー人生と今後の活動についてお話を伺えたらと思っています。はじめとして、小林さんがサーフィンを始めたきっかけだったりを教えていただけますでしょうか。

サーフィンは18歳の時に茨城の大洗(ビーチ)でデビュー。友達なんかとただやってみようって思って。

そこからサーフィンにのめり込んでいったのでしょうか。

のめり込んでいったね。毎週、仕事が無ければ行ってたし、冬も行ってた。その当時はプロになりたいとかではなくて、ただ友達とサーフィンしてるのが楽しくてサーフィンに打ち込んでた。最後の方は一緒に始めたメンバーがみんなやめちゃったから一人でやってた。サーフィン行った帰りの交通事故まで。

事故について詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか。

事故は二十歳の時。外に放り出されて、意識がなくなった。車もボロボロになった。でも、サーフボードだけは折れてないんだよね。

気がついた時の心境としてはどうでしたか。

俺はまず、親に謝った。初めて謝ったよ。ICUで手術が終わって麻酔が切れて目が覚めて親父とおかんに「本当にごめん。」って謝った。
多分、途中までの記憶しかなかったんだけど自分が事故をやっちゃったってことは分かったんだ。その時、身体がバーンって投げ出されて足が動かなくて、「これやっちゃった。完全に切断だ。」って、そのまま意識失っちゃった。
親に「行ってきます。」って言って家を出たのに五体満足で帰れなったことは本当にやっちゃいけないことだと思った。

リハビリであったり、辛い期間はありましたか。

完全自爆だし、ただでさえ親に迷惑かけてるのに落ち込んでる自分なんて見せたら、さらに心配かけちゃうしさ。周りの友達にも迷惑かけちゃう。だから、辛いとかは思えなかった。

ケガやそれによる障害についてはどのように感じていらっしゃいましたか。

「また戻ってやろう」って、立とうという気持ちではいたけど、すぐには受け入れられてはいなかったかな。

事故後にサーフィンをまたやろうと思ったのはいつごろですか。

しばらく諦めてた。まずは自分の生活を安定させる事、社会に出て生活が送れるように埼玉の国立のリハビリテーションセンターに行って一年ぐらいリハビリやってたかな。体の機能とかも全然違うし、車椅子の扱いとか覚えたり。

実は、事故の前は「サーフィンをやるなら!」って思って、オーストラリアにワーキングホリデーで行こうとしてたんだ。
全部の手続きが終わって、行くってなったら一週間前に事故に遭っちゃって。。。
一緒に行く予定だった先輩がいたんだけど、俺がそんな状態だったから、「そんなんいけるわけねえじゃん」って、、、結局先輩もキャンセルして申し訳なかったよ。

事故に遭ったあとちょうど病院のベッドでシドニーオリンピックを観て「あそこの地に本当だったらサーフィンしに行ってたんだな」と思った。

もう一度やりたいとは思ってたけど、身体のこともあったから「サーフィンに関わる仕事はしたいな。」って思って初めた頃からお世話になっていたサーフショップで働きだしてさ。そこで、板(サーフボード)を修理する仕事ができたから、サーフィンの近くに居れたんだよね。

ある時、上司に「サンディエゴに一緒に行こうぜ」って誘われて行った時に、「ニーボードっていうのがあるんだよ」って教わったんだ。「要は正座でボードに乗ってサーフィンするんだよ。正座いける?」って聞かれてさ。とりあえずだけど、とっさに乗れるかわからない板を買ったんだ。サンディエゴでは乗らなかったんだけど、持って帰ってきて乗ってみたのがまたサーフィンを始めようと思ったきっかけだったな。結局それには乗れなかったんだけどね(笑)

それから、別のサーフボードで週1、2回乗ってみたのが始まりかな。本当に周りの支えがあってだよね。全然感覚が違うんだよ。(サーフボードの)乗り方も全然違う。(自分自身の)体幹も無い。仲間に一緒についてってさ。手だけだから落ちたりもするし、以前やってたサーフィンとは感覚が全然違ったよ。浜を渡るのも難しいし、茨城の浜って崖を降りていくようなところも多いから。

そこから一人で行けるようになるまではどれ程かかりましたか。

とりあえず、波に慣れる感覚だけでも結構時間がかかった。大会に出始めたのも最近かな。それまではフリーサーファーだった。
大会に出始めたのは5年、6年前かな。要はサーフィンがオリンピックの正式種目になって、「じゃあ、パラサーフィンどうなの?」って世界的に動き出したから。

大会自体は2006年くらいからハワイとかではあったんだけど、人数とかも少なかったし、大会っていうよりはチャリティーみたいな感じだった。世界戦としては2015年からワールドアダプティブサーフィンチャンピオンシップかな。俺は一回目は出てないんだけどね。

当時は参加権が得られなかったという事でしょうか。

協会の方にオファーはあったらしいいんだけど。日本にそういうサーファー(アダプティブサーファー)があまりいないし、そこまで日本で認知も進んでいなかったから、協会もスルーしちゃってたらしい。

2015年に大会を知って、「え!なになに?そんなのやってんの!?」ってなって俺はハワイ行ってたし、ハワイのアダプティブサーファーとのつながりもあったから、みんなが出てるなら俺も出たいなって思って、インターナショナルサーフィン(ISA)協会に問い合わせたら、日本の協会に「出場したい」って話が伝わって2016年の世界戦に出れたんだよね。その大会では日本から、今のチームキャプテンの伊藤建史郎君と俺の二人で出場して、「とりあえず爪痕残そう」ってね。そんなんで行ったのがはじめかな。

そこから今のサーフ人生がリスタートした感じ。想像がつかなかった。良いタイミングだったよね。本当に応援してくれる人が居るのはありがたいよ。やっぱりやるからにはてっぺんを目指したい。サーフィンから離れられなかったことは本当に良かったし、いつかパラリンピックにも出たいって思ってるよ。

貴重なお話をありがとうございます。
小林さんは、アメリカへ語学留学をされてから、日本へ戻ってきてすぐに愛知県でお店(カフェ)を開かれています。今回、新店舗として小林さんの地元・群馬県にてカフェを開店されるとのことですが、お店についてお話を伺いたいです。

カリフォルニアサンディエゴにいる時ぐらいに戻ったら愛知に住むって決めてたのかな(奥様のご出身が愛知県)。コーヒーショップをやることも決めてた。店やろうと思ってたからさ。日本に帰ってきてすぐの頃、タイミングが合って愛知で店を出して、なんだかんだで今もう9年目。人生のタイミングってすごいよね。住処は別だけど、ここ(群馬)にたどり着いたわけじゃん。
今は、「愛知在住で群馬出身」って言うようにしてる。

地元・群馬県にて新店舗をオープンするということについてはどうでしょうか。

ありがたいことに社長からお声がけいただいた。「マサの活動のサポートしたい」「またここ(群馬)でやらないか」「地元でやらないか」って言ってくれた。本当にありがたいお話。最初から地元でやろうって頭ではいたし、地元で仲間がいるとこだからさ。

お店についてやりたいことであったり、コンセプトはどうでしょうか。

もちろん自分のやりたいこともあるけど、周りの人のやりたいことも入れたかった。ライブもやりたいとか色々な意見を聞いた中で、やっぱり(コンセプトが)南国になっちゃうんだな。まあ、みんなサーフィンで繋がってたからさ。
群馬に海はないけど、そんなのは関係ない。大きく見れば群馬も日本って思えば海に繋がってるでしょって(笑)

小林さんにとってサーフィンとカフェはとても大きなものだと感じました。なにか他にも今後の活動として広げていきたいものはありますか。

やっぱりアダプティブサーフィンの活動だけど、まだ新しいジャンルな訳でありながらも国際パラリンピック委員会(IPC)からの認可は既に受けていて、2024年、2028年開催から(アダプティブサーフィンは)正式種目になっていく可能性が高い。そうなると、やっぱパラリンピックの種目になる事で障害を持った子供たちの夢や希望になっていくわけじゃないですか。
パラテニスとかパラバスケも一緒であるけど、その中でアダプティブサーフィンも子供達の選択肢の一つになればいいなっていうのはすごいある。もっとサーフィンを広げたいっていう気持ちも大きいし、子供たちにサーフィンを教えたりすると子供たちの笑顔が半端ないわけだよ。それがすごく自分に響いた。日本は子供たちがパラサーフィンに触れる機会がすごく少ないから、そういう環境も整えていきたい。まあ、先ずは自分たちの存在を知ってもらうって大事なのかなって思った。世界と比べて日本って、そういうとこで遅れてたりするから意識的にも変えていければいいかな。

具体的にその第一歩だったりはありますか。

サーフ体験イベントやパラサーファーの育成だったりとかかな。そういうとこでサーフィンの土台を作っていき、いい形で(次世代に)バトンを渡せたらいいのかな。

今後群馬のピースカフェはどのような場所になっていくのでしょうか。

お店として、色々な方が集まる発信場所でありたい。こういう時代だからどんどん発信してシェアしていきたい。カフェだけど色々な方に使ってもらいたい。そして自分たちも発信していきたい。

では最後に、小林さんにとっての群馬はどのような場所か聞かせていただきたいです。

故郷でもあるし、仲間のいる場所でもあるし、帰れる場所、落ち着く場所。
家かな。

年齢もあるのかもしれないけど、安心感だったり懐かしさを感じられて落ち着くかな。10代の頃は都会に憧れちゃったりするんだけど、今群馬の景色とか見るとすげえいいってなっちゃったりする。すごくいいとこだよ、やっぱり家だよね。帰るとこがあるっていいよ。

話は変わっちゃうかもだけど、3.11だったりで故郷をなくしてしまったりとかってそういう人たちに出会ってきたけど、帰る場所があるってすげえ良いって(被災された方は)言うよ。
やっぱり帰る家(地元)があるって有り難い。

群馬では俺にとって大切なサーフィンは出来ないけれど、ここがホームグラウンドだから帰ってきてる。

これからも愛知と群馬を行き来しながら、サーフィンを続けていくよ。

貴重なお話をありがとうございました!

小林 征郁 (こばやし まさふみ)
1980年1月2日生まれ
群馬県前橋市出身
愛知県東海市在住
ホームブレイク 伊良湖
詳細は公式HPまで、https://masafumi-k.jp

2016:
カリフォルニア州サンディエゴで行われた2大会目となる
ISA World Adaptive Surfing ChampionShip に
日本初出場日本代表選手として出場
2017:
ISA World Adaptive Surfing Championshipに
日本代表選手として出場
2018:
ISA World Adaptive Surfing Championshipに
日本代表選手として出場
2020:
ISA World Adaptive Surfing Championshipに
日本代表選手として出場
PEACE CAFE
所在地:〒370-0007 群馬県高崎市問屋町西1丁目4−1
営業時間:月〜木 7:30~18:00
     金 7:30~0:00
     土 12:00~0:00
     日 12:00~18:00
PEACE CAFEは、スペシャリティ珈琲を楽しめる
珈琲スタンド。
ランチ、夜営業、店にはライブ&多目的スタジオ、
貸しスタジオも併設されており、
新年会、忘年会、結婚式2次会、ライブ、イベント、
撮影スタジオなど様々なシーンでお使い頂け、
定期的に生ライブも行われます。
また、ゴミを少しでも減らしていければという
コンセプトからリユースカップの使用や
リサイクルストロー、タンブラー割引きなど環境に
配慮した店作りを目指しています。
この記事のURLとタイトルをコピーする